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辻が花とは

2016.10.20 / 辻が花について

辻が花とは

 辻が花とは何か、と聞かれても、資料不足や資料のあいまいさなどから一概には言えないが、現在の定義では「絞り染めを基調として、描き絵・摺箔・刺繍などを併用したもの」

ということでいいだろう。辻が花の基本となる絞り染めは、奈良時代から日本に伝統的に続く手法で、布を結んだり括ったりして染めた初歩的で簡略なものから、絵模様の輪郭を縫い絞って多色に染め分けたものまで様々なものがある。これは縫い絞った糸の圧力で染料が生地に入るのを防ぐ纐纈と呼ばれるものだ。描き絵とは、直接生地に絵を描く手法で時には絞りさえも凌駕して自己主張している感のものもある。次に摺箔だが、これは金箔や銀箔を糊などの接着剤を使って貼り付け、模様を出す技術である。中世の公家服飾や、室町時代には禅僧の袈裟などにも用いられていた。刺繍はその模様の表出性が高いため控えめに使われていたが、それも時代とともに変化していった。

 このように辻が花は絞り染めがほぼ主となってはいるが、他の補助技法との協調、あるいは離反という非常に複雑な展開が錯綜しているため、それを語るのはとても難しい。しかも、名称の由来や発生の時期や変化・展開は、ほとんど謎といっていいほど確証の無いものなのだ。

辻が花という名称

 名称については多種多様な説がある。簡単にそれらを紹介する。まず一つ目は、模様が旋毛(つむじ)の生えた様に似ているから、という説。二つ目は、つつじが花が略されたものという説。次に、辻=十字路という意味で、これも模様に似ているからという説。また、模様と模様の間を[辻]というのだが、それと関係があるという説、等どれもこれといった確証の無いものばかりで、その名称がどこから出たものなのか、そして今日我々が辻が花と呼んでいるものが当時からそのような名称で呼ばれていたかは一切判っていない。しかし、名称がどうであろうがいつ生まれたのであろうがその美しさは変わらないのだ。

その手法

 模様を表すために、複雑な縫い締め絞り・竹皮絞りなど高度な技法が使用された。小さな模様の鹿の子絞りと呼ばれるものならば、糸で絞るだけでいいのだが、大きな模様のときは巻上げ絞り・竹皮絞りが使われ、染め分けには桶絞りが使われた。巻上げ絞りとは、色の入ってほしくないところをその名の通りぐるぐる巻きに巻き上げることによって防染する、というもので、竹皮絞りとは、竹皮をかぶせ、裏に木や紙の芯を入れて防染する、というものである。この竹皮は現在では使われず、使い勝手の良いビニールへと変化していった。桶絞りは、防染したい部分を桶に挟む方法である。
 想像すればわかるのだが、辻が花の技法は、はっきり言って糸をほどいてみるまで模様がどうなっているのかわからない。そのため、本来多彩な絵模様の表出には不向きなので、友禅染などの糊で防染する糊防染系の表出の自由さには、遠く及ばない。だからといって、辻が花と友禅を同じ次元で語り、それを無条件に技術の進歩・向上とするのは全くおろかな事といえる。なぜならその技法上の制約が、かえって自然な模様の表出効果を招いているからである。

 ところで現在において当時の技術の完全な再現は不可能といわれ、あくまで「化学的な再現」が行われている。原因として、当時は草木を煮出して作った染料を使う草木染めであったこと、生地が今よりずっと薄かったこと、木綿糸が無かったために麻糸で絞っていたことが挙げられる。今、当時の技術の完全な再現を試みても、化学染料も木綿糸も使えないため、それは気が遠くなるような作業になるのだ。そのような悪条件であったにもかかわらず、美しい辻が花をつくった当時の職人の技術は、計り知れないものがある。

服装の変化

 中世において、公家は高級織物を着て庶民は染物を着ることが普通で、染は低俗であると考えられていた。しかし公家政権が崩壊して武家政権になり、武家独自の文化が成長し始めた13世紀後半頃からその流れが変わっていった。十二単は筍の皮をはぐかのように上から脱ぎ捨てられていき、下着的な要素の強かった小袖が最表層に表れてきた。加えて、下剋上の頃にはその風潮に誘発されて下級階層の着物が上級化し、遂にこの二つの動きが合流して、小袖が中心となっていったのだ。もともと十二単は複数の衣の重なりや表裏の色を違えることによって、調和やコントラストの表出を重視していたため、模様の多様性よりも、織物の持つ均一さと重厚な色調が好まれていた。しかしそれが一枚着の小袖になったため、重ね着による色のコントラストを望むことはできず、模様が重要視されるようになったのだ。そのため計算的な織よりも、即興的で表出性の幅が広い染が中心となっていった。こうして織から染への転換が行われたのである。

 また武士だけでなく一般大衆の生活が向上し、それとともに衣生活も向上したため必然的に、着物の意匠と技術の創意工夫が行われ、ここに模様染めの本格的な発展が始まったのだ。その発展の途上に生まれた一つの製品、これが辻が花である。

辻が花の歴史

「辻が花」という名称は、15世紀後半にはじめて文献上に現れる。当時の資料に桂女が辻が花の小袖を着ていた、という記述があるが、その名称が何に由来するのか、またそれがどのようなものであったかは全くわからない。しかしその後は武家の故実書に、辻が花は女性や子供、若衆などが用いるものとして現れ、また成人男子にもスポーツ着には用いても良いともあり、武家層にまでその流行を広げていた事がうかがえる。1596年には豊臣秀吉が明国の使者へ、帰国時の餞別として辻が花を贈ったという記述もある。

 このように辻が花は、誕生からおよそ一世紀余りのあいだで各階層の人に用いられるまでに広がり、同時に「辻が花」という名称も、今我々が着物といえばすぐに「友禅」と口にするように身近な日常語となっていたようだ。当時日本にいたポルトガル宣教師でさえその名を耳にし、『日葡辞書』にTsujigafanaと収録している。

 もちろん一口に辻が花といってもそれぞれ各層の人々によって色や模様の好みも異なり、素朴なものから高級なものまで様々なものがつくられたことだろう。しかし現存しているものは当時の生産量から見ればほんの一握りの量で、寺社に奉納されたものや、上杉謙信・豊臣秀吉・徳川家康らの英雄が着用した形見など、特別に保存され伝えられてきたものばかりである。そのため辻が花は英雄しか着ることのできなかった最高級品であった、と考えられがちだが実際着物とは消耗品であり、特別な理由の無い限り保存されないのは当たり前といえる。

辻が花の歴史~模様の変化~

 辻が花をその模様の特徴で分けると大きく四つに分けられる。

一つ目は室町時代中期以前で、この頃は絞り染めのみだったと考えられる。実物が残っていないためはっきりとはいえないが、技術的にもまだ粗さがあったと思われる。

次に室町時代後期になると、絞り染めに描き絵・摺箔・刺繍などを併用したものが多い。技術的にかなり高度になってはきたが、図案が初歩的で、絞りの自己主張も弱く、他の技法と協調していたのがこの時代の特徴といえる。

三つ目は桃山~江戸時代初期である。この時期はもっぱら実力がものをいう風潮だったので、その文化はまずわかりやすさが前提であった。この風潮はしばしば豪華絢爛という言葉であらわされる。そこに俗悪とはったりが紙一重で存在していたのも事実だが、そうならなかったのは、この時代の現実肯定の風潮によるものといえる。だからそこには逃避も退廃も無く、極めて健康的で、隠れたおしゃれなどは無かったのだ。この時期は辻が花の完成期といえ、男性用のものながら女性用にまがう派手なものが多く、絞りがその本来の美しさに気付き、それを最も生かした時期であった。美しいものを素直に美しいと肯定し、性別など問題にしないその姿勢は、日本の歴史の中でも異彩を放っていたといえる。

最後は江戸時代中期である。この時期になると絞りは色の染め分けだけに使用される補助的な役割となり、細かい模様はほぼ刺繍や摺箔で表されるようになった。それはもはや辻が花と呼べるものではく、加えて友禅染の発達から辻が花はその存在意義を失い、自然に消滅へと向かったのだ。

まとめ

 このように辻が花は、美しい花が咲くかのごとく一瞬だけ歴史上に現れた。しかしその染の理念は、次の時代の染色文化に受け継がれその発展に大きく貢献した。

辻が花は決して量産的でなかったため駄作は無く、全てが丹念に磨き上げられている。その美しさ、そのはかなさから、いつの頃からか辻が花は《幻の染め》と呼ばれるようになった。

参考文献

「辻が花染め」         伊藤敏子     講談社

「日本の美術 辻が花染め」   今永清士     至文堂

「辻が花」           切畑健     京都書院

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